妻・沙絵は、娘・可奈を相手に趣味の手編みをしていた。私は、ブランデーの入ったグラスを手に、満天の星を眺めながらゴルトベルク変奏曲に耳を傾けていた。それは、わたしを陶酔の世界へと導いていった。
私は、初めてこの曲を銀座の喫茶店で聴き、感動のあまりすぐにそこを飛出して、レコード店でこの曲の入ったコンパクトディスクを購入したときのことを思い出していた。
フォルケルのバッハ伝
その附属の解説書には、フォルケルの「バッハ伝」に基づく曲の由来が書かれてあった。
時は、1741年。バッハは、任地のライプツィヒから、選帝侯国の首都であるドレスデンに旅をした。ドレスデンは、当時進歩的な音楽の営みの一大中心地であり、バッハの肩書はその「宮廷作曲家」であった。ドレスデン入りしたバッハは、称号請願の際、力添えをしてくれたロシア公使カイザーリング伯爵のもとを訪れる。
そこでバッハは、ヨハン・ゴットリープ・ゴルトベルクという14歳の少年に出会った。この少年は、並みならぬ楽才ゆえに10歳のころダンツィヒからスカウトきれ、伯爵邸に仕えながら、鍵盤楽器演奏に磨きをかけていたのであった。
伯爵は当時不眠症にかかっていた。眠れぬ夜は、ゴルトベルクにクラヴィーア演奏をきせるのを常としていた。そこで伯爵は、そんな折りに演奏させるための「穏やかでいくらか快活な性質をもち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィーア曲」をバッハに所望し、バッハはひとつの変奏曲(ゴルトベルク変奏曲)を書いて、依頼者に応えた。
伯爵はルイ金貨が百枚詰まった金杯をバッハに贈り、この曲を「私の変奏曲」と呼んで、長年愛聴し続けた。
歴史の重み
近年、この有名な逸話には、疑問が投げかけられていると言われているが、その様なことは、私には大きな問題ではない。なぜなら、この曲自体が持つ、人を感動させる差しさの方が重要であるからである。
私は、歴史の重みに耐えたものが好きだ。音楽であろうと、美術であろうと、文学であろうと、分野を問わない。それらには、時を超えた貴重な原理原則があるからだ。
秋の夜長の夢物語はミステリアス
さて、こんな思いを抱いていると、いつのまにかグラスのブランデーは空になっていた。
私は、2杯目をグラスに注ぐためにブランデーの入ったボトルに手を伸ばした。そのとき、妻の方を見ると、先程と同じように娘を相手に楽しく手編みをしていた。
私は、ブランデーをグラスに注ぐと再びバッハと星空の世界へと入っていった。それからしばらくして、この美しい変奏曲に混じって電話のベルの音が聞こえてきた。電話のベルは、長い間鳴っていたようだ。
妻は、手を放せないらしい。私は、立ち上がって電話の方へと歩き始めようとした。その瞬間、目の前から妻・沙絵と娘・可奈の姿が消えた。どうしたのだ!私の頭は、混乱した。私は、事態を把握するのに時間を要した。
私は、自宅のリビングでブランデーを飲みながらバッハの音楽と星空に遊んでいるうちに、転寝をしてしまったのである。そのとき、夢を見たのであった。
そう、これは、秋の夜長の夢物語であったのだ!
現実の世界では、まだ、電話のベルが鳴っている。私は、急いで受話器に手を伸ばしそれをとった。受話器からは、女の声が聞こえてきた。
「私、サエです。今週末、会えないかしら。」
「えっ。!?」
夜空には、満天の星が魅惑的に輝き、バッハのゴルトベルク変奏曲BWV988は、第30変奏曲を美しく秦でていた。(完)